top of page
CFG_titlelogo.png

ジョージ・ハリスン生誕80周年記念 劇場特別版公開

ジョージ・ハリスンの音楽と人生を称え、盟友エリック・クラプトンが開催した歴史的一夜。
感動と慈愛あふれる伝説のトリビュート・コンサート映画が
ジョージ生誕80周年の今年、初めて劇場の大スクリーンに蘇る!

豪華​出演者たち

このページは、以下ボタンからご覧いただける海外公開時のオリジナルページを転載したものになります。

エリッククラプトン.jpg

エリック・クラプトン:音楽監督

1945年英サリー州ギルフォード生まれ。幼い頃から独学でギターを身につけ、1963年にヤードバーズ加入。1965年、ジャック・ブルース、ジンジャー・ベイカーとクリームを結成。1969年、スティーヴ・ウィンウッドとともにブラインド・フェイスを結成。解散後ソロと並行して、デレク&ザ・ドミノスを結成し、名作「いとしのレイラ」を発表する。その後はソロキャリアを続け、グラミー賞を受賞した「ティアーズ・イン・ヘヴン」、「チェンジ・ザ・ワールド」などのヒット曲を次々と世に送り出ている。US Rolling Stone誌が選ぶ偉大なギタリストで2位、グラミー賞、ブリット・アワード、ロックの殿堂など多くの賞を受賞、大英帝国勲章も授けられた。

ジョージ・ハリスンとは長年親しい友人であり、ビートルズ『ホワイト・アルバム』収録「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」への参加から始まり、1970年『オール・シングス・マスト・パス』、1971年『バングラデシュ難民救済コンサート』への参加など音楽的にも多くを共にした。ジョージにとってビートルズ以来25年ぶりであり、同時に最後の日本公演となった1991年のツアーはクラプトン・バンドと共に行われたものである。2000年ロックの殿堂入り。

今年デビュー60周年を迎え、4月来日時、通算100回目の武道館公演を行った。

ポールマッカートニー.jpg

ポール・マッカートニー

1942年英リヴァプール生まれ。15歳の時にリヴァプールのセント・ピーターズ教会でジョン・レノンとの運命的な出会いを果たし、彼のバンド、クオリーメンに加入。翌年ポールの紹介でジョージ・ハリスンもバンドに加わり、1960年からビートルズとしてハンブルグ巡業をスタート、1962年にはリンゴ・スターも加わりジョン・ポール・ジョージ・リンゴのビートルズがシングル「ラヴ・ミー・ドゥ」でデビューを果たす。ビートルズでは“レノン=マッカートニー”名義で「イエスタデイ」「レット・イット・ビー」など多くのヒット曲を世に送り出す。

1970年、ビートルズ解散後にソロ作品をリリースしたのち、妻のリンダ、元ムーディー・ブルースのデニー・レインを中心に“ウィングス”を結成、積極的なツアーを行うとともに7枚のオリジナル・アルバム、1枚のライヴ・アルバムを発表。「心のラヴ・ソング」「マイ・ラヴ」「バンド・オン・ザ・ラン」「007死ぬのは奴らだ」などのヒット曲を量産した。1981年のウイングス解散後も精力的にソロ作品を発表。1990年にはビートルズ以来、初の来日を果たし、以降7回の来日ツアーを行っている。

1981年、ジョンの死を悼み発表されたジョージ・ハリスンのシングル「過ぎ去りし日々(All Those Years Ago)」にリンゴと共に参加した。プロデュースはジョージと、本作にも出演するレイ・クーパー。

デビューから半世紀以上経過した現在でも、第一線で活躍し、ギネス世界記録で”ポピュラー音楽史上最も成功した作曲家”として認定されている最高のロック・レジェントである。1999年ロックの殿堂入り。

トムペティアンド.jpg

トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズ

トム・ペティは、1950年USフロリダ州生まれ。1976年、トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズとしてデビュー。1989年からは並行してソロとしても活動。グラミー賞を3回受賞し、2002年にはロックの殿堂入りを果たす。アメリカン・ロック・シーンを代表するアーティストとして、ミュージシャンや音楽ファンから尊敬される存在である。

1988年にはジョージらと上述のトラヴェリング・ウィルベリーズを結成。

本コンサートには、ザ・ハートブレイカーズ(マイク・キャンベル、ベンモント・テンチ、ロン・ブレア、スコット・サーストン、スティーヴ・フェローン)とともに参加している。2017年10月に66歳で他界。

リンゴスター.jpg

リンゴ・スター

1940年英リヴァプール生まれ。1962年にビートルズに加入。そのドラム・テクニックとセンスでビートルズを支え、多くのドラマーからのリスペクトを受けている。ビートルズでは「イエロー・サブマリン」「ウィズ・ア・リトル・ヘルプ・フロム・マイ・フレンズ」などのボーカルを務める。ビートルズの映画『ハード・デイズ・ナイト』『ヘルプ!』他では主役的な役割を演じ俳優としての才能も発揮、その後もピーター・セラーズと共演した『マジック・クリスチャン』他、多くの作品で活躍した。

親しみやすく温厚な性格から、ビートルズ解散後のソロ活動でもメンバーと多く交流し、1973年のソロアルバム『リンゴ』では、元ビートルズのメンバー全員が参加したことでも話題を呼んだ。

本コンサートで演奏されたジョージとの共作曲、『リンゴ』収録「想い出のフォトグラフ」の他、1971年のシングル「明日への願い」1973年「バック・オフ・ブーガルー」がジョージのプロデュースにより全米No.1ヒットとなった。

1989年よりリンゴ・スター&ヒズ・オール・スター・バンド結成。ロック界の超一級アーティストたちが集まったスーパー・バンドと共にビートルズ解散後初の本格的ツアーに出る。同年来日、以降5回の来日ツアーを行っている。

トレードマークとなっているダブルのピースサイン、“ピース&ラヴ”のメッセージを広めるため、毎年7月7日の自身の誕生日にイベントを行い、多くの人々に“平和と愛”を呼びかけている。

1988年にビートルズとして、2015年にソロ・アーティストとして、ロックの殿堂入りを2回果たした。

サムブラウン.jpg

サム・ブラウン

1964年英ロンドン生まれのシンガー・ソング・ライター。ジョー・ブラウンとセッションシンガーのヴィッキー・ブラウンの娘。

1988年のデビュー・シングル「Stop!」が各国でトップ10入りを果たし250万枚以上のセールスを記録、以降、計7枚のアルバムをリリースしている。自身の作品の他、バッキングボーカルシンガーとしても活躍、ピンク・フロイド『対』に参加、ツアーにも同行した。ジョージの遺作となった2002年のアルバム『ブレインウォッシュド』でバック・ボーカルも務めている。本コンサートではジュールズ・ホランドと一緒に「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」にボーカルで参加。ジュールズ・ホランド・アンド・ヒズ・リズム&ブルース・オーケストラにも度々参加している。

ビリープレストン.jpg

ビリー・プレストン

1946年、米ヒューストン生まれLA育ちのキーボーディスト。1962年、16歳の時には、すでにチャック・ベリー、リトル・リチャードなどの大物ミュージシャンのバックを務める。チャック・ベリーのハンブルグ公演でビートルズと出会う。1969年1月、アップル・コア本社スタジオにビートルズを訪ね、そのまま“ゲット・バック・セッション”に参加、見事な演奏でその場を和ませ、ルーフトップ・コンサートにも参加した。シングル「ゲット・バック」に“ビートルズ・ウィズ・ビリー・プレストン”とクレジットされていたことから、“5人目のビートルズとも呼ばれた。ビートルズの作品に他のミュージシャンの名前がクレジットされた初で唯一のケースだったからである。

その後、ビートルズのレーベルAPPLEに移籍、ジョージ・プロデュースでの移籍第1弾となる『神の掟』(1969)、『エンカレッジング・ワーズ』(1970)を発表。本コンサートでビリーが演奏する「マイ・スウィート・ロード」は『エンカレッジ・ワーズ』のためにジョージが提供した曲でジョージのシングルより先に発表されている。

キーボード奏者として、ジョージを始め、ジョンやリンゴ、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトンのレコーディングやツアーに参加。1974年「ナッシング・フロム・ナッシング」が全米1位に輝くなど、ソロ活動でも順調なキャリアを築いた。2006年、死去。

アヌーシュカ・シャンカール.jpg

アヌーシュカ・シャンカール

1981年ロンドン生まれのシタール奏者。ラヴィ・シャカールを父に、ノラ・ジョーンズを異母姉に持つ。

幼い頃から父に師事し、13歳でステージ・デビュー。1997年、ジョージ・プロデュースのラヴィのアルバムに参加、1998年にはデビュー・アルバム『アヌーシュカ』をリリース。ソロ活動の一方で父とともにステージに上がり高い評価を受けた。2005年に発表したコンテンポラリー・アルバム『ライズ』が同年度のグラミー賞ワールドミュージック部門にノミネートされた。

姉に当たるノラ・ジョーンズとは2007年『水の旅 (Breathing Under Water)』や、2013年『トレース・オブ・ユー』などで共演、2023年にはノラのポッドキャストに出演「トレース・オブ・ユー」のセルフ・カヴァーもリリースされた。

本作では父が作曲したジョージ追悼曲の指揮という大役を務めている。

ジェフリン.jpg

ジェフ・リン:コンサート・オーディオ・プロデュース

1947年英バーミンガム生まれ。ロックバンド「エレクトリック・ライト・オーケストラ(ELO)」のリーダー。ELOとして「テレフォン・ライン」「ターン・トゥ・ストーン」「ザナドゥ」など多くのヒット曲を生み出し、スタジアム・バンドとして大成功を収めた。ELO解散後は積極的にプロデュース活動を行い、1987年ジョージ・ハリスン『クラウト・ナイン』をプロデュースする。1988年にはジョージ・ハリスン、トム・ペティ、ボブ・ディラン、ロイ・オービソンとともにスーパー・バンド“トラヴェリング・ウィルベリーズ”を結成、ジョージとの交友を深めた。1995、96年の“ビートルズ・アンソロジー・プロジェクト”では、ジョン・レノンのホーム・デモを元にポール、ジョージ、リンゴが新たにレコーディングして完成した“新曲”「フリー・アズ・ア・バード」「リアル・ラヴ」のプロデュース等を担当、敬愛してやまないビートルズとの仕事を手掛けた。1992年にはリンゴ・スターの『タイム・テイクス・タイム』、1997年にはポール・マッカートニーの『フレイミング・パイ』のプロデュースも担当した。本作出演のトム・ペティのソロ、ザ・ハートブレイカーズの作品プロデュースも手掛けている。本作ではコンサート・オーディオ・プロデュースを担当している。2017年ELOとしてロックの殿堂入り。​

ジョーブラウン.jpg

ジョー・ブラウン

1941年生まれ。ロンドンで育つ。1950年代後半より活躍するイギリスのロック・レジェンド。

キャリアの初期はBBCのテレビ番組でギタリストとしてレギュラー出演し、同時に、エディ・コクラン、ジーン・ヴィンセント、ジョニー・キャッシュなどの訪英時にセッションミュージシャンを務めた。1962~3年には「ア・ピクチャー・オブ・ユー」他のヒットを連発し、ビートルズが前座を務めたこともある。

その後、ITVで『ザ・ジョー・ブラウン・ショー』という自身の番組やミュージカルの主演を務めるなど活躍の幅が広がる。21世紀に入ってからもBBCラジオ2のレギュラー番組を持ち、2002年にはグラストンベリーフェスに出演、定期的にライブを行うなどの活躍を続けている。

ジョージ1982年のアルバム『ゴーン・トロッポ』に参加、ウクレレ好きとしてジョージと親交を深めた。

ジュールズホランド.jpg

ジュールズ・ホランド

1958年英ロンドン生まれのピアノ・キーボード奏者。ブリティッシュ・ロック・バンド、スクイーズのオリジナル・メンバー。1980年にバンドを離れ、ソロ活動をスタート。セッションやコンポーザーとして活動する。1985年、オリジナルメンバーで再始動したスクイーズにジョインするが、1990年代初頭にはBBC『Later...with Jools Holland(ジュールズ倶楽部)』などのために再びバンドを離れた。ホランドがホストを務め、毎回多様なジャンルのミュージシャンがライブを披露する『Later..』は良質な音楽番組として人気を博し、1992年のスタートから現在まで続く、BBCの長寿番組となっている。

ホランドはまた、1995〜96年にリリースされた『ビートルズ・アンソロジー・シリーズ』でポール、ジョージ、リンゴへのインタビュアーを務めた。本コンサートでジュールズ・ホランドとサム・ブラウンが演奏した「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」は、ホランドのソロ・プロジェクト、ジュールズ・ホランド・アンド・ヒズ・リズム&ブルース・オーケストラ“の2001年作品『Small World Big Bands』に収録されている。この曲がジョージにとって生前最後のレコーディングとなった。

レイクーパー.jpg

レイ・クーパー

1947年、英ワトフォード出身のパーカッショニスト。ロンドンの王立音楽院で学んだレイのキャリアは音楽、映画、テレビ、演劇など多岐に渡っている。

サポート&ツアー・パーカッショニストとして、エルトン・ジョン、ローリング・ストーンズ、エリック・クラプトン、ジョージ・ハリスン、リンゴ・スター、ピンク・フロイド、スティングなど一級アーティストと共に活動、確固たる地位を築いた。1991年、ジョージ&エリックの日本公演にも参加している。

1979年には友人であったジョージからハンドメイド・フィルムズに誘われ、10年あまりに渡って作品プロデューサーや音楽制作を務めた。同社のテリー・ギリアム監督『バンデットQ』、ニール・ジョーダン監督『モナリザ』などである。同社以外のテリー・ギリアム監督作品にも多く関わっている。

本作ではプロデューサーを務めた。

ラヴィ・シャンカール.jpg

ラヴィ・シャンカール

1920年生まれ。北インドの伝統弦楽器シタール奏者・作曲家。インド音楽を世界に紹介し、クラシック〜ロックまで多くの西洋音楽に影響を与えた巨匠である。10代には兄舞踏団で欧米を回る。25歳よりシタール奏者としてデビューすると同時にトップ・アーティストとなった。1960年代にはジョン・コルトレーンと交流。1966年にジョージと出会う。「ノルウェーの森」などでいち早くシタールを取り入れ、ラヴィの音楽に深い感銘を受けていたジョージは弟子入りを熱望、ラヴィはジョージのシタールの師匠となり、精神的友となる。その友情は生涯続いた。

1967年のモントレー・ポップ・フェスティバル1969年ウッドストック・フェスティバル、ジョージと共催した1971年NYマディソン・スクエア・ガーデンでの「バングラディシュ難民救済コンサート」等に出演し、ロック・ポップスにも大きな影響を与えた。2013年の第55回グラミー賞で生涯貢献賞を受賞。1982年リチャード・アッテンボローの『ガンジー』など多くの映画音楽も手掛けた。 後述のアヌーシュカ・シャンカール、ノラ・ジョーンズの父でもある。2012年死去。

モンティ・パイソン.jpg

モンティ・パイソン with トム・ハンクス & ザ・マウンティーズ

イギリスを代表するコメディ・グループ。グレアム・チャップマン、ジョン・クリーズ、エリック・アイドル、テリー・ジョーンズ、マイケル・ペイリン、テリー・ギリアムの6人で、1969年、BBCで伝説的コメディ番組『空飛ぶモンティ・パイソン』をスタートさせた(1976~77年に日本でも放送)。オックスブリッジ出身のイギリス人5人+アメリカ人アニメーターのテリー・ギリアムというメンバーで、風刺の効いたコント、ブラック・ユーモア、スラップスティック、短いスケッチがアニメーションでリンクしていく画期的なスタイルで、新世代のコント集団として人気を博し、「コメディ界のビートルズ」と例えられた。彼らはTVの成功を受け、映画、演劇、音楽、本、ミュージカルへと活躍の場を広げていった。

 

ジョージは、放送当初からモンティ・パイソンのファンだったが、映画『ライフ・オブ・ブライアン』(1979)の制作をきっかけにより深い関わりを持つようになる。“キリストに間違えられた男ブライアン”の物語であることを知ったEMIが、宗教的問題に発展することを恐れ、急に400万ドルの出資を取り下げたのだ。まさに映画のロケに行こうとしていた矢先に資金難に陥ったことを知ったジョージは、自宅と事務所を抵当に入れ資金を調達、ハンドメイド・フィルムズという会社を設立し映画を救った。(本人もカメオ出演している)『ライフ・オブ・ブライアン』は大ヒットし、イギリス映画史上最高のコメディ映画と評された。

 

本コンサートでモンティ・パイソン登場時にピアノを引いているのは、ビートルズのパロディ・バンド“ラトルズ”の楽曲制作を手掛けたニール・イネス(『マジカル・ミステリーツアー』に登場するボンゾ・ドッグ・ドゥーダー・バンドのメンバーでもあった)。エリック・アイドルが制作したラトルズのドキュメンタリー『オール・ユー・ニード・イズ・キャッシュ』にもジョージはレポーター役で登場している。

本コンサートでは、ジョン・クリーズに変わって、トム・ハンクスが特別出演し、コーラス隊マウンティーズとして、コーラスを務めている。

トム・ハンクス

1956年、米カリフォルニア州出身の俳優、映画監督、映画TVプロデューサー。キャリア当初はサタデー・ナイト・ライブや『ビッグ』など、コメディを得意としていた。『フィラデルフィア』(1993)『フォレスト・ガンプ』(1994)で2年連続アカデミー主演男優賞を受賞して以降、『アポロ13』『グリーンマイル』(1999)といった主演作が軒並み大ヒットし、『プライベート・ライアン』『キャスト・アウェイ』『ダ・ヴィンチ・コード』などの主演で、ハリウッドを代表する演技派俳優として活躍を続ける。モンティ・パイソン・ファンを公言しており、本作では、不参加のジョン・クリーズに変わって、モンティ・パイソン特別メンバーとして「ランバージャック・ソング」に参加した。

bottom of page