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ジョージ・ハリスン生誕80周年記念 劇場特別版公開

ジョージ・ハリスンの音楽と人生を称え、盟友エリック・クラプトンが開催した歴史的一夜。
感動と慈愛あふれる伝説のトリビュート・コンサート映画が
ジョージ生誕80周年の今年、初めて劇場の大スクリーンに蘇る!

特別寄稿 / 藤本国彦 ビートルズ研究家

ALL THINGS ABOUT ジョージ・ハリスン

 ジョージ・ハリスンは、1943 年2月 25 日にリヴァプールに生まれた。「ビートルズ誕生」はジョンとポールの出会いがき っかけとなったのは間違いないが、ジョージはそれ以前にリヴァプール・インスティテュートの1学年上だったポールと知り合 い、58 年にポールの紹介でジョンのバンド、クォリーメンに参加。ビートルズではリード・ギターを担当したほか、シタール やモーグ・シンセサイザーなど“異種楽器”を取り入れた。66 年にパティ・ボイドと結婚。その後オリヴィア・アライアスと出 会い、78 年に息子ダニーが生まれ、入籍した。代表作は『オール・シングス・マスト・パス』(70 年)、『慈愛の輝き』 (79 年)、『クラウド・ナイン』(87 年)、『ブレインウォッシュド』(2002 年)など。

 ビートルズのデビュー時は、最年少ということもあって、やんちゃでずけずけモノを言い、ジョンの弟分としていつも後をつ いてまわる無邪気な存在感が際立っていた。だが、映画『ヘルプ』(65 年)でシタールに出会ってインドの古典的な 伝統音楽に関心を持ったジョージは、シタール奏者ラヴィ・シャンカールに師事し、「ノルウェーの森」(65 年)を手始 めに、「ラヴ・ユー・トゥ」(66 年)、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」(67 年)、「ジ・インナー・ライト」(68 年) と、インド音楽を本格的に追及し、ビートルズの曲調の幅を広げることに貢献した。それだけでなく、妻パティの勧めでジ ョージはインド思想にものめり込んでいった。

 

 ビートルズは「ジョージを成⻑させるためのバンドだった」と言ったのは、ジョージ好きのイラストレーター本秀康さんだが、 「ビートルズを存続させようと努力した」のもジョージだった。もちろん「ビートルズ愛」が最も強かったのは間違いなくポール だが、ビートルズの「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のレコーディング・セッションにエリック・クラプトンが参加 するきっかけを作り、閉塞感の強かった状況を改善させた。クラプトンの参加に関しては、『ザ・ビートルズ』(68 年) 制作中、リンゴの脱退でぎくしゃくしていた時期に、ジョージが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」でギターを 弾いてほしいとクラプトンに声をかけて実現したものだった。これ以降、ジョージとクラプトンは“義兄弟”のような関係にな った。パティがクラプトンからの熱烈なラヴコールに応えてジョージの元を離れたものの、二人の友情は、ジョージが亡くな るまで続いた。ジョージの追悼コンサート『コンサート・フォー・ジョージ』をクラプトンが主催したことが、何よりの証だ。

 

 周りを従わせたり、権威を振りかざしたりはせずに、有名無名問わず、仲間意識を強く持ち、実直に向き合う。そんな ジョージの人柄の良さが滲み出るエピソードは、映画『リヴィング・イン・ザ・マテリアル・ワールド』(11 年)でも描かれて いる。ひとつだけ挙げると、避暑地としても最適なイギリス郊外のヘンリー・オン・テームズにある「フライアー・パーク」に 70 年に居を構えたジョージは、90 年代以降になっても、地元の無名ミュージシャンを自宅に呼んだりして、セッションを楽 しんだという。「元ビートルズ」であることをむしろ嫌い、来るものを拒まず、誰でも受け入れるジョージの心(度量)の広 さがあったことこそ、ジョージが多くの仲間に慕われる大きな理由でもあった。

 

『コンサート・フォー・ジョージ』の見どころ

 

 2002 年 11 月 29 日、ジョージの1周忌にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールで開催された『コンサート・フォー・ ジョージ』には、そんなジョージの懐の深い人柄を慕って、多くのミュージシャンが集まった。ジョージが在籍したビートル ズ、トラヴェリング・ウィルベリーズの元メンバーのほかに、ラヴィ・シャンカール、ビリー・プレストン、ゲイリー・ブルッカー、クラ ウス・フォアマン、ジム・ケルトナー、モンティ・パイソン(素晴らしい!)ほか、⻑年、ジョージと交友関係を築き続けた 面々が一堂に会した。

 

 そうした錚々たる顔触れが次から次へと登場し、ジョージが書いた曲を中心に披露するのだから、盛り上がらないわけ がない。中でも、やはりポールが歌う3曲「サムシング」「フォー・ユー・ブルー」「オール・シングス・マスト・パス」と、エリックを フィーチャーした「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」は格別だ。トム・ペティ&ザ・ハートブレイカーズにジェフ・リンとジョージの息子ダニーが加わったトラヴェリング・ウィルベリーズの「ハンドル・ウィズ・ケア」も、この追悼コンサートならで はの名演である。他にももちろん、ジョージのビートルズ時代の名曲「タックスマン」と「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、リンゴがジ ョージと共作して全米1位となった「想い出のフォトグラフ」、全米1位となったソロ時代の代表曲「マイ・スウィート・ロー ド」と「ギヴ・ミー・ラヴ」をはじめ、ジョージ作品には欠かせない多くの曲が演奏されている。ジュールズ・ホランドらの演奏 をバックにサム・ブラウンが熱唱する、ジョージのラスト・レコーディング曲「ホース・トゥ・ザ・ウォーター」が、このコンサートで 取り上げられたのも意義深い。

 さらにこのステージがジョージを偲ぶ温かい雰囲気に包まれたのは、59 年にデビューしたイギリスの歌手ジョー・ブラウン の存在だ。ジョー・ブラウンの 62 年6月8日発売のシングル「ア・ピクチャー・オブ・ユー」(全英2位)を、デビュー前 のビートルズは、BBC ラジオへの2度目の出演となった、そのわずか1週間後の6月 15 日にジョージのヴォーカルで 披露した。もともとシングルのB面曲だった「ア・ピクチャー・オブ・ユー」を気に入り、即座に練習し、BBC ラジオ用に披 露したジョージ。思えばビートルズがカヴァーしたドネイズの「デヴィル・イン・ハー・ハート」も、ジョージが気に入ってすぐさま レパートリーに取り入れたシングルのB面曲だった。

 80 年代以降、ジョージはロックンロールの先達――たとえばカール・パーキンス、ロイ・オービソン、デル・シャノンなどを 第一線に引っ張り出したが、往年の名歌手ジョー・ブラウンとも、お互いウクレレ好きということで⻑年の交友関係にあっ たというのも、ジョージの人柄ゆえだろう。追悼コンサートでのジョー・ブラウンの選曲がまたいい。ウクレレを弾きながら歌う 「ヒア・カムズ・ザ・サン」は、ジョージの音楽的魅力がわかった人だからこその滋味深い演奏だし、何より、最後を飾る 「夢で逢いましょう」が、涙を誘うほどの素晴らしさである。ちなみにサム・ブラウンは、ジョー・ブラウンとヴィッキー・ブラウン の娘で、ヴィッキー・ブラウンは、映画『上海サプライズ』の同名の主題歌をジョージとデュエットした女性である。ダニーの 参加だけでなく、親子二代でのこうした繋がりがまた、どことなく運命的に感じられるのも、『コンサート・フォー・ジョージ』 ならではの粋な演出だ。

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